本文は校史館の中国語原文からの翻訳です。記録としては中国語原文を正とします。

01マッケイ博士の露天学校

マッケイ博士は台湾での宣教にあたり、気候への適応、言語と文化、社会環境、経済的条件を考慮して、特に現地の幹部人材の養成を重んじ、明らかな成果を上げただけでなく、後世にも深い影響を与えた。淡水で家を借りて伝道を始めて以来、信徒を学生として受け入れ、この教育の仕事を始めた。

マッケイ博士と初期の学生たち
マッケイ博士と初期の学生たち

彼は著書の中でこう記している。「台湾北部における我々の最も早い学校は、今日淡水河を見下ろす牛津学堂と呼ばれるあの立派な建物ではなく、大榕樹の下、青空を屋根とするものであった。私と阿華が仕事を始めると、毎日必ず一人から二十人の学生が共にいた。我々はまず必ず讃美歌を歌った。天気が良ければ、榕樹や竹林の下に座って一日中朗読し、討論し、あるいは試験を行った……」

マッケイ博士が逍遙学園時代の学生と八里坌の大榕樹の下で授業をする様子は、初代の学生にとって最もロマンティックな思い出であった。この榕樹は1923年に倒れた。
マッケイ博士が逍遙学園時代の学生と八里坌の大榕樹の下で授業をする様子は、初代の学生にとって最もロマンティックな思い出であった。この榕樹は1923年に倒れた。

当時は校舎がなかったため、授業は彼の自宅で行われることもあれば、医館での臨床実習であることもあり、また伝道や医療の旅の途中でその場で教えることも多かった。淡水・沙崙の海辺、八里坌の大榕樹の下、現在のゴルフ場の丘は、いずれも彼らがよく訪れた場所であった。

1880年にマッケイ博士が初めて帰国するまでの、この八年間は露天教育期と呼ばれ、「逍遙学園」(Peripatetic School)とも愛称された。この時期は教育の開拓期であり、正式な学制も教材もなかったが、単なる粗末なキリスト教伝道者の養成にとどまるものではなかった。マッケイ博士が西洋の極めて先進的な近代教育の考え方を持ち込み、教える内容も自然科学と人文科学に及んだからである。

マッケイ博士は著書の中で、この「大榕樹の下、青空を屋根とする学校」について述べている。彼は自ら学生を導いて読書、研究、調査を行い、ノートを取らせ、復習の試験を課し、さらに野外に出て山や海で各種の動植物を採集させ、観察と研究のために標本を作らせた。このほか学生は歌唱、演説、討論などの技能も学ばねばならず、旅に出れば民衆と接し、聞き取りをし、彼らを教えることも学び、夜には共に働き反省した。この「巡回学校」(Itinerant College)は、聖書のイエスと十二人の弟子に倣ったものである。

こうした人格の感化を重んじる師弟制の教育は、マッケイ博士がプリンストンとエディンバラで学んだ時代に、偉大な宣教師や教授たちから受けた身をもっての感化と関わりがある。この八年間の学生は合わせて22人で、いずれも教会と医療の働きの重要な人材となり、さらに後の「牛津学堂」と「女学堂」の教師の供給源ともなった。

マッケイ博士が学生を連れて各地の教会を巡視する旅は、宣教の実習であり、一種の校外教育でもあった。
マッケイ博士が学生を連れて各地の教会を巡視する旅は、宣教の実習であり、一種の校外教育でもあった。
マッケイ博士が学生を連れて三貂嶺古道を越え、宜蘭の教会を巡視する。
マッケイ博士が学生を連れて三貂嶺古道を越え、宜蘭の教会を巡視する。

02近代教育の発祥地としての牛津学堂

1880年末、マッケイ博士はカナダに戻り、各地で講演に招かれ、台湾での宣教の経験を報告した。伝説に満ちたその宣教の成果は、当然ながら大きな反響を呼んだ。マッケイ博士は特に、教会と社会が必要とする人材を育てるため、淡水に学校を設けることを提案した。

このことはただちに現地の牧師たちと、牛津郡の「前哨評論報」(The Sentinel-Review)紙の力強い支持を得て、募金運動が起こされた。1881年10月11日、台湾に戻るマッケイ博士の送別会の席で、彼らは集めた6215カナダドルを、淡水に近代的な学校を建てる費用として彼に手渡した。

1882年の盛夏に落成し、清末には俗に大学と呼ばれた「牛津学堂」。写真右方でマッケイ博士が偕叡廉(ジョージ・ウィリアム・マッケイ)の手を引いている。1890年6月26日撮影。
1882年の盛夏に落成し、清末には俗に大学と呼ばれた「牛津学堂」。写真右方でマッケイ博士が偕叡廉(ジョージ・ウィリアム・マッケイ)の手を引いている。1890年6月26日撮影。

マッケイ博士は台湾に戻るとただちに着手し、現在の淡江中学の西側に土地を購入し、福建から煉瓦と瓦の建材を取り寄せ、自ら設計と監督にあたった。1882年7月、この中西折衷の赤煉瓦の建物が落成して使用が始まり、「理学堂大書院」と名付けられ、英語ではOxford College(牛津学堂)と呼ばれた。カナダ・牛津郡の人々の厚意を記念するためである。

9月14日に落成式と開学式が行われ、教師と学生のほか、各地の教会の信徒、イギリス領事、外国商人、税関の外国人職員、そして台北知府など清朝の官吏が参列した。官を代表する孫開華提督は挨拶で「かくのごとき台湾の小さな島にこの学堂があるのは、まことに全国で最も善き挙である」と述べた。このほか、内外の人士が経費や設備を寄贈して盛会に加わり、空前の盛況といえた。

当時は入学試験がなく、学生は数十人の志願者の中から各地の伝道師が選抜し推薦した。第一期は18人が入学を許され、牛津学堂の教師は校長を務めるマッケイ博士のほか、露天教育期の先輩や外部から招いた漢学の教師などであった。

牛津学堂の教育内容は、キリスト教の教義や聖書研究の学習にとどまらず、天文学、化学、物理、地質学、地理学、生物学、動物学、植物学および一般の自然科学、さらに衛生、解剖、薬理、臨床医学、体育、音楽、算術などにも及んだ。教育設備には、清末の台湾では珍しい講壇、黒板、世界大地図、天文図、オルガン、譜面台があり、博物室と図書室も備えていた。このほかマッケイ博士の宿舎にはさらに研究室が一室あり、地球儀、万華鏡、カメラ、各種の科学機器、標本、収蔵品などが、彼の言うように「驕れる文人に頭を垂れさせ、傲れる官吏を心服させる」ほど多くあった。

マッケイ博士の自宅にあった博物館と研究室(1892年撮影)
マッケイ博士の自宅にあった博物館と研究室(1892年撮影)
右図は当時牛津学堂で使われた算術の教科書『筆算的初学』第一冊、1897年萃経堂刊。現在も淡江中学校史館に保存されている。
右図は当時牛津学堂で使われた算術の教科書『筆算的初学』第一冊、1897年萃経堂刊。現在も淡江中学校史館に保存されている。

台湾各地の人文および自然に関する収蔵品は六百余点に及び、現在はいずれもカナダ・オンタリオ州の国立博物館に収蔵されており、2001年には2百余点が台湾に戻って展示された。

教育の方法については、教室での授業のほか、野外での実地教育、標本採集、参観旅行などがあった。学生は寄宿生活であったため、毎晩「夜会」があり、学生は讃美歌、演説、討論などを行った。マッケイ博士は知識を授けるほか、生活教育をいっそう重んじ、教室でも寝室でも環境の清潔を求め、学生には端正な身なりと溌溂とした気力を求め、悪習を改めさせた。

マッケイ博士は機会があれば、淡水駐在の領事、洋商、税務司、淡水を通りかかった船長、官員、科学者、軍人などをしばしば学校に招いて講演させ、学生の見聞を広げた。牛津学堂は規模や設備、創立の理想、教育の方法と理念のいずれにおいても清末の中国では相当に先進的であり、まさに台湾の新しい文化教育の発祥地と呼ぶにふさわしい。

マッケイ博士が淡水の牛津学堂で授業をする場面。助手は愛弟子の柯維思。
マッケイ博士が淡水の牛津学堂で授業をする場面。助手は愛弟子の柯維思。

マッケイ博士は著書の中でこう記している。「大教室には四つのアーチ形のガラス窓があり、後方に教室と同じ幅の講壇と黒板がある。学生には一人ずつ使える机と椅子がある。世界地図が一幅、天文図が数幅、歌の譜を書いた紗布を掛けた譜面台が一つある。この学校の設備は、50名の学生を収容できる……」。

03台湾で最も早い女子学校としての淡水女学堂

牛津学堂が順調に創設されたことは、マッケイ博士をさらに推し進めにくいもう一つの教育事業、すなわち女子教育へと励ました。清末の中国はすでに西洋の風を受けていたが、伝統的な封建社会の気風は変わっておらず、この仕事は困難に満ちていた。マッケイ博士は台湾の女性の地位の低さと知識の閉ざされた状況を目の当たりにし、そのために国外の婦人団体から経費を得て、マッケイ夫妻ともう一人の宣教師閏虔益(Rev. K. F. Junor)の夫人とで女子教育にあたった。しかし社会の観念が保守的であったため、成果は大きくなかった。

1883年、マッケイ博士のこの理想は「カナダ長老教会婦人海外宣教委員会」の支持を得て、三千カナダドルを超える寄付が寄せられた。同年秋、牛津学堂の東隣で、この女学校の新校舎の建設が始まった。しばしば深夜まで作業を急ぐ必要があったため、牛津学堂の学生は工事現場のそばでよく歌を歌い、職人たちを励ました。

マッケイ博士と夫人の張聰明女史、および1884年に創設された「淡水女学堂」。
マッケイ博士と夫人の張聰明女史、および1884年に創設された「淡水女学堂」。

マッケイ博士は著書の中で女子学校創設の当初の思いをこう述べている。「男性の伝道の幹部を養成する学校が必要であると考えたのと同じく、ある一つの中心となる場所に、婦人や少女たちが同時に数か月間住むことができ、常に管理と薫陶を受けられる学校を建てる必要があると考えた。年長の婦人の生活を改め、若い女性の生活を導くためである」。

写真で張聰明の傍らに座っているのは呉威廉牧師夫人と、娘の偕以利である。

1884年1月19日、台湾の女子教育の先駆けと認められるこの「淡水女学堂」が正式に開学した。開学式は当時のイギリス領事が司式し、合わせて37名の女性が入学した。その大半は宜蘭から来た噶瑪蘭(カバラン)平埔族の人々であった。女性の入学を勧めるため女学堂は学費を免除し、旅費、食事と宿舎、衣服などを補助したが、台湾の民衆は礼教に従い女性が人前に出ることを望まず、「女子に才無きは徳なり」という観念が根強く、さらに学校には高い塀の守りもなかったため、学びに来る漢人の女子は極めて少なかった。それでも女学堂の学生は最も多い時には八十人に達したことがある。

女学堂もマッケイ博士が校長を務め、マッケイ夫人と数名の伝道師の夫人が舎監と教師を務め、牛津学堂の教師もここに来て教えた。課程には読書、習字、算術、歌唱、地理、婦人の技能、聖書の歴史、聖書の教義などがあった。基本的にこの学校には学年や単位の制度はなく、入学年齢の制限もなかった。時間や経済の事情で学校に来て教育を受けられない一部の女性に合わせ、「夜学」の短期の組も特に設けられた。

04台湾の女子教育の扉を開く―淡水女学校

マッケイ夫人:婦人教育の先駆者

清末にはすでに西洋の風が及んでいたが、固有の封建思想は根強く、マッケイ博士は宣教の過程で台湾の女性の地位の低さと知識の閉ざされた状況を目の当たりにした。そこでマッケイは宣道婦を養成し、また自ら台湾の女性と結婚することによって、この状況を変えようとした。マッケイ夫人の張聰明は、五股の貧しい家の幼な嫁(童養媳)であった。

彼女の養祖母である陳塔嫂は、北台湾で最初の女性信徒であった。二人はいずれも台湾の婦人教育の先駆者である。張氏の俗名は「蔥仔」といい、五股の礼拝堂に通って学び礼拝した。マッケイ博士は彼女に洗礼を授ける際、その「蔥」の音にかけて「聰明」と改名した。この異国間の結婚は、マッケイの学生が仲人となり、張聰明の祖母陳塔嫂が取り持って成ったものである。二人は1878年5月27日、紅毛城のイギリス領事館で結婚した。

マッケイ博士と夫人の張聰明女史、および1884年に創設された「淡水女学堂」。
マッケイ夫人の張聰明女史は幼い頃から他家の幼な嫁であった。

彼女はもとマッケイの学生であり、1878年に淡水のイギリス領事館でマッケイと結婚した。

張聰明はマッケイ博士のために家を守り、子を産み育てたほか、二度マッケイ博士とともにカナダへ帰国報告に赴き、当時人々が争って見ようとした「台湾の連れ合い」となり、今も語り草となる話を数多く残した。このほか女学堂の創設後は舎監、総管の役割も担い、後の女学校や婦学堂にもその影響力が及んだ。

彼女はその後の婦人宣教と女学堂の働きにおいて重要な役割を果たし、婦人教育の最初の学生ともいえる。

台湾の女子教育の始まり

牛津学堂が順調に創設された後、マッケイ博士はこれに励まされ、周囲の反対を排して1884年に台湾で最初の女子学校「淡水女学堂」を創設し、新しい教育が男女に等しく及ぶようにした。当時の女学堂の建物は11週間の工期で建てられ、牛津学堂と規模、工法、形式が極めてよく似た四合院の建物であった。同じく正門の入口が大講堂で、両側の廂が教室、奥が宿舎であり、マッケイ博士が重んじた「採光が良く、空気が流れる」という条件にもかなっていた。

マッケイ博士の死後、女学堂は一時休講となった。カナダ長老教会は新しい時代の北台湾の女子教育を充実させるため、資格を備えた若い女性宣教師を選んで淡水に派遣し、第二波の興学が始まった。

マッケイ博士と夫人の張聰明女史、および1884年に創設された「淡水女学堂」。
早い時期に今日の紅毛城のバルコニーから東を望んだ景観。左側が牛津学堂、右側の建物が女学堂である。屋根の形式と尖塔から、二つの建物の類似性と、マッケイ博士の一貫した建築の様式がうかがえる。
マッケイ博士と夫人の張聰明女史、および1884年に創設された「淡水女学堂」。
1913年、高姑娘の帰国報告のための送別会。写真から女学堂の建物の傷みが見て取れ、そのため二年後に取り壊して建て替えられた。

台湾の女子教育を証しするランドマーク

1907年に女学校が再び開学した後、もとのマッケイ博士が建てた女学堂の校舎では手狭になったため、1915年に新校舎を建て直し、翌年五月に完成して使用が始まった。女学校は四合院の中に中庭を囲む二階建てで、正面の精巧な煉瓦アーチの回廊と緑釉の花瓶形の欄干は、当時淡水で流行した洋館の様式であった。正面の妻壁には「淡水女学校」の中国語と英語の名が煉瓦彫りで陰刻されていた。草木の茂る閉ざされた校庭に、修道院式の寄宿管理を採り、当時の台北で最も良い女子教育の環境であった。

この建物の建設を計画したのは、当時北部教会の指導者であった呉威廉(ウィリアム・ゴールド)牧師である。それ以前に彼は淡水で姑娘楼(1906年)、牧師楼(1909年)、婦学堂(1910年)を、また台北で北投教会の礼拝堂(1912年)と旧マッケイ記念病院の建物(1912年)など、人々に称賛された建築を完成させていた。

台湾総督府の文書には当時の女学校の建物の平面図が保存されている。
台湾総督府の文書には当時の女学校の建物の平面図が保存されている。
マッケイ博士と夫人の張聰明女史、および1884年に創設された「淡水女学堂」。
女学校竣工時の正面の景観。
マッケイ博士と夫人の張聰明女史、および1884年に創設された「淡水女学堂」。
女学校竣工時の明るい中庭。
マッケイ博士と夫人の張聰明女史、および1884年に創設された「淡水女学堂」。
左図は女学校が落成し使用が始まった後、6月1日に改めて開学した時の学生。
マッケイ博士と夫人の張聰明女史、および1884年に創設された「淡水女学堂」。
右図は女学校二階の前廊から観音山を望む景色。

牧師夫人と先生夫人の学校

淡水女学校は私立の教会学校であったため、日本の教育当局から掣肘と難癖を受け、合法的な認可も得られず、法令によって「淡水女学院」と改称するほかなかった。「淡水女学院」は西洋式の教育を採り、学風も校庭も欧米の学校に倣い、皇民教育の日本の中学校とは異なっていた。教会の信徒だけでなく、社会の名士の令嬢たちも争って学ぼうとする女子学校であり、そのため「牧師夫人」と「先生夫人」の揺籃と称され、当時の台湾社会で高い名声を得た。

淡水女学院は日本人に強制的に接収された後、「淡水高等女学校」と改称され、もとの校舎は「善寮」と名付けられ、隣接して女子寄宿舎に改められた婦学堂、牛津学堂とともに「真・善・美」の三学寮と呼ばれた。

1928年、淡水女学院と婦学堂の教師と学生が、金姑娘、高姑娘、呉威廉牧師夫人が淡水を離れるのを見送った時のもの。当時、女学校の校舎はすでに12年使われていた。
1928年、淡水女学院と婦学堂の教師と学生が、金姑娘、高姑娘、呉威廉牧師夫人が淡水を離れるのを見送った時のもの。当時、女学校の校舎はすでに12年使われていた。
淡水女学院は西洋式の教育を採り、学風も校庭も欧米の学校に倣い、当時の皇民教育の日本の高等女学校とは異なっていた
淡水女学院は西洋式の教育を採り、学風も校庭も欧米の学校に倣い、当時の皇民教育の日本の高等女学校とは異なっていた
女学院の授業の様子
女学院の授業の様子
女性宣教師が体操とリズムダンスを教えている
女性宣教師が体操とリズムダンスを教えている
閲覧室での夜間自習
閲覧室での夜間自習

高女に学べば食べるのは好きでも作るのは好まず

淡水高女は日本人が一目置いた台湾の女子中学校であった。女子中学校は俗に「高女」と呼ばれ、日本統治時代には台湾で最も高い女子教育であった。高女の卒業は今日の修士や博士よりはるかに稀で、名門の令嬢の象徴であるだけでなく、家の名誉を高めるに足るものであった。当時の台湾の人々は、こうした恵まれた「天の愛娘」を「高女に学べば食べるのは好きでも作るのは好まず」と評したものである。

実際には、淡水高女の学生は校訓の「温良貞淑」の通り、外に秀で内に慧いという伝統を備えていたが、同時に女性が男性に劣らぬことを求める尚武の精神も持っていた。それに教会学校の歴史的伝統と、淡水のロマンティックな学びの環境が加わり、この精巧な赤煉瓦の校舎に暮らした彼女たちは、多彩な一頁を咲かせた。

淡水高女の女学校の建物内での華道、茶道、工芸の授業。当時はちょうど太平洋戦争の期間にあたり、「国民精神総動員」により濃厚な皇民色を帯びていた
淡水高女の女学校の建物内での華道、茶道、工芸の授業。当時はちょうど太平洋戦争の期間にあたり、「国民精神総動員」により濃厚な皇民色を帯びていた
その意気は溌溂として、今日には見られない文武兼修、五育を等しく重んじる学風があった。
その意気は溌溂として、今日には見られない文武兼修、五育を等しく重んじる学風があった。
淡水高女の学生が女学校の校舎の前に集合し、「勤行報国」として淡水の海軍墓地へ英霊の墓を清めに向かうところ。
淡水高女の学生が女学校の校舎の前に集合し、「勤行報国」として淡水の海軍墓地へ英霊の墓を清めに向かうところ。
淡水高女時代の女学校の校舎
淡水高女時代の女学校の校舎
改められた校門
改められた校門
右側にはテニスコートが設けられ、校舎と体育館の北側にも運動場が設けられた
右側にはテニスコートが設けられ、校舎と体育館の北側にも運動場が設けられた

花嫁学校:純徳女子中学

第二次世界大戦後、淡水高女は台湾基督長老教会に戻り、政府の新しい法令に応じて「純徳女子中学」と改称した。体育の面で輝かしい成績を収め、台湾の女子バスケットボールを牽引したほか、音楽、美術、家政、幼保などいわゆる「花嫁学校」の方向へも発展した。惜しくも時勢が許さず、最後まで実を結ぶことはなかった。しかし純徳女中は一貫して教会学校であり続け、人格の育成と生命の価値を重んじる教育の内実を保った。あの動揺する時局と教育環境の中で独自の道を歩み、今なお語り草となっている。

純徳女中は徳姑娘と陳泗治校長のもとで音楽科を設け、後に美術家の陳敬輝が担当して美術、家政、幼保などの科にも広げた。優れた花嫁を育てる専門の中学といえる。写真の前列中央に座るのが陳泗治校長(背広姿)、その右から陳敬輝先生、杜姑娘、高姑娘(幼児教育)、李姑娘、徳姑娘。
純徳女中は徳姑娘と陳泗治校長のもとで音楽科を設けた
女学校の建物は純徳女中にちなんで純徳大楼と改称され、今日まで用いられている
女学校の建物は純徳女中にちなんで純徳大楼と改称され、今日まで用いられている
後にこの校舎から生まれた幼稚園、附設小学部もいずれも「純徳」と名付けられた
後にこの校舎から生まれた幼稚園、附設小学部もいずれも「純徳」と名付けられた

女子寄宿舎・純徳幼稚園

純徳幼稚園が移転した後、純徳大楼は数年間使われないままとなり、後に中学部の教室、音楽クラスの事務室、自習教室として用いられた。2006年、学校は女学校の校舎の竣工90周年を記念して創立記念の行事を行った。当時陳水扁総統が会長を務めていた文化総会は、これに合わせて、ここに全国で初めての台湾の「女性文化ランドマーク(Landmark of Woman's Culture)」を掲げることを決めた。陳水扁総統は3月8日に自ら臨んで除幕式を司り、この百年の古い建物が「全台湾で最初の女子学校」であるという歴史的な位置づけを確かなものとした。

2007年、台湾の教育環境の変化と、少子化が淡江の学校運営に与える影響に応じるため、学校は小学部を増設するという歴史的な決定を行った。「純徳大楼」を小学部の校舎とし、女学校の校舎が落成して以来、最大規模の改修が始まった。古蹟の本体の保存と修復のほか、内部の設備は完全に現代化され、政府の小学校に対する建築法規の要求に適合させた。同年七月に生徒を募集して開学し、女学校の校舎は「純徳小学」の時代に入った。

2006年3月9日の創立記念日に、純徳大楼の竣工90周年を祝う行事が行われた。学校の理事会、海外のマッケイ家の代表、カナダ女宣道会、当時の卒業生と教職員の代表が、ともにこの歴史的な建物のための祝いの行事を行った。
2006年3月9日の創立記念日に、純徳大楼の竣工90周年を祝う行事が行われた。
2006年3月8日(婦人デー)、陳水扁総統が自ら淡江中学を訪れた
2006年3月8日(婦人デー)、陳水扁総統が自ら淡江中学を訪れた
陳水扁総統が台湾で最初の女性文化ランドマーク「淡水女学堂」の除幕式を司る
陳水扁総統が台湾で最初の女性文化ランドマーク「淡水女学堂」の除幕式を司る
大規模な改修を経て、古蹟の姿と建築の本体を保ちつつ、内部の設備は完全に現代化された。
大規模な改修を経て、古蹟の姿と建築の本体を保ちつつ、内部の設備は完全に現代化された。
2007年、淡江中学附設小学部は純徳大楼を創立時の校舎とした。
2007年、淡江中学附設小学部は純徳大楼を創立時の校舎とした。
純徳大楼の竣工90周年に際し、カナダ婦人会の代表、カナダ在台協会の代表、マッケイ家の第四代が来校して記念の式に参加し、学校はこのために石碑を建てて創立の沿革を記した。碑文の台座には当時の純徳女中の校章が刻まれている。
純徳大楼の竣工90周年に際し、カナダ婦人会の代表、カナダ在台協会の代表、マッケイ家の第四代が来校して記念の式に参加し、学校はこのために石碑を建てて創立の沿革を記した。碑文の台座には当時の純徳女中の校章が刻まれている。

歴代の女性淡江人の精神の砦

今日、この女学校の校舎は淡江の学生のために百年を超えて用いられてきた。その間、校名は幾度も改められ、淡水女学堂、淡水女学校、淡水女学院、淡水高等女学校、純徳女子中学と変わった。機能の上でも女学校の教室から女子寄宿舎、幼稚園、そして今日の小学部の教室へと変わってきた。しかしより重要なのは、それが台湾の女子教育の歩みを見つめてきただけでなく、歴代の女性淡江人の精神の砦であったことである。

女学校の校舎はすでに百年を超えた。この古蹟が淡江の校庭に在り続ける限り、マッケイが女学堂を創設して以来、二甲子を超える女子教育の歩みの物語は、淡江中学で歌い継がれ、絶えることはないであろう。