本文は校史館の中国語原文からの翻訳です。記録としては中国語原文を正とします。

01淡江中学の創設者—マッカイ博士

マッカイ博士は淡水が通商港となった時期に淡水へ来て、この地を家とし、また台湾における宣教・医療・教育の拠点とした。三十年近くの間に、マッカイ博士はキリスト教の教義を広め、北部台湾基督長老教会を設立しただけでなく、西洋の文化をも伝えた。彼が設立した病院と学校は台湾近代化の里程標となった。民の知を啓き、思想を開き、社会の気風を変えることに深い影響を与え、さらに清末台湾社会の近代化に消すことのできない貢献を残した。

02カナダ 初の海外宣教師

マッカイ博士(Rev. George Leslie MacKay, D.D.)は、中国語名を偕叡理といい、教会の信徒たちは敬意をこめて「偕牧師」と呼んだ。

1844年3月21日

偕牧師は英領カナダ・オンタリオ州(Ontario)オックスフォード郡ゾラ村の、スコットランド移民の家庭に生まれた。幼い頃は開拓地の環境で育ち、十歳のとき、故郷の小さな教会堂で、遠く中国での宣教から帰ったイギリス人宣教師の講演を聞き、それに感化されて、将来自分も中国へ宣教に赴こうと志を立てた。

マッカイ牧師は師範中学を卒業し、数年間小学校の教員を務めたのち、トロント、プリンストン、エディンバラなどの大学で相次いで学んだ。しかし中国へ宣教に赴くという初志を終始変えず、幾度もの申請を経て、26歳のときにようやくカナダ海外宣道会の派遣辞令を受け、カナダ長老教会初の海外宣教師となった。

マッカイは開拓移民の家庭に生まれた。左の図に示されるような環境が、彼にこれらの郷里の人々は「大自然の最も厳しい鋳型で鍛え上げられ、みな英雄の気概を備えていた」と述べさせた。右の図は幼い頃に礼拝した木造の教会堂で、彼はこの教会堂で海外宣教師になることを志した。
マッカイは開拓移民の家庭に生まれた。左の図に示されるような環境が、彼にこれらの郷里の人々は「大自然の最も厳しい鋳型で鍛え上げられ、みな英雄の気概を備えていた」と述べさせた。右の図は幼い頃に礼拝した木造の教会堂で、彼はこの教会堂で海外宣教師になることを志した。

1871年10月

彼は故郷の人々に別れを告げ、汽車でアメリカのサンフランシスコへ向かい、さらに太平洋を横断し、日本を経て香港に着いた。働く場所を選ぶため、中国の広州、汕頭、廈門を訪ねて調査し、年末に台湾に到達して打狗港(今日の高雄)に上陸した。1865年には既にイギリス長老教会が廈門から台湾南部で活動を始めていたが、台湾北部は人口が密集し発展も速いにもかかわらず、キリスト教の伝道も教会もなかった。そこでマッカイ博士は南部の宣教師の推薦を受け、断固として台湾北部へ赴くことを決めた。

1872年3月9日

マッカイ博士は汽船・海龍号で午後三時に淡水港に入った。彼は淡水の美しい風光に惹かれ、この地を後の台湾宣教の拠点とすることを決めた。続いて彼はただちに、北上に同行したイギリス人宣教師とともに中部へ一か月に及ぶ徒歩の旅に出て、台湾の風土と人情を知ろうとした。淡水に戻ると、マッカイ博士は淡水の街でもともと馬小屋にする予定であった家を借り、住まいとして整え、民衆とともに暮らしながら、礼拝と診療と授業の場も兼ねさせた。同時に、機会を見つけては村の牧童に通俗的な台湾語を教わり、宣教の働きを始めた。

マッカイ博士が淡水に着いた初期には、淡水河の水運の便を利用して、淡水河水系の各村落に伝道し教会を設立した。図は1893年3月9日に汽船で士林へ向かうところで、マッカイ博士は白い帽子をかぶり煙突のやや前方に立っている。
マッカイ博士が淡水に着いた初期には、淡水河の水運の便を利用して、淡水河水系の各村落に伝道し教会を設立した。図は1893年3月9日に汽船で士林へ向かうところで、マッカイ博士は白い帽子をかぶり煙突のやや前方に立っている。

当時、淡水は開港通商して間もなく、中国人と外国人が入り交じり、環境は複雑で、文化・経済・政治の差があまりに大きくしばしば衝突が起こり、民衆の排外感情も高まっていたため、マッカイ博士の宣教の道のりはきわめて困難であった。しかしマッカイ博士は比類のない忍耐と意志、そして民衆に仕える熱意によって、民衆の猜疑と排斥を次第に克服し、台湾の人々との距離を縮めていった。

1872年3月9日、マッカイ博士は淡水に上陸した。今日、淡水郵便局の裏手には記念のマッカイ像が設けられ、著名な名所となっている。
1872年3月9日、マッカイ博士は淡水に上陸した。今日、淡水郵便局の裏手には記念のマッカイ像が設けられ、著名な名所となっている。

1873年2月

マッカイ博士は淡水で五人の信徒に洗礼を施し、台湾北部で最初の教会を設立したのち、1880年にカナダへ帰国して復命するまでの八年間に、二十の教会を開拓した。その中には、排外で知られる艋舺や大龍峒、また新店、三峽、錫口(松山)、新荘など台北の主要な町の教会も含まれている。

淡水教会はマッカイ博士が設立した北台湾で最初の教会である。現在の赤煉瓦の礼拝堂は淡水の著名な古跡で、彼の来台60周年を記念して建て直されたものである。図中の1933年11月の落成式から見ると、参加者の大多数は当時の淡水中学と淡水女学院の学生である(両校は淡江中学の前身)。
淡水教会はマッカイ博士が設立した北台湾で最初の教会である。現在の赤煉瓦の礼拝堂は淡水の著名な古跡で、彼の来台60周年を記念して建て直されたものである。図中の1933年11月の落成式から見ると、参加者の大多数は当時の淡水中学と淡水女学院の学生である(両校は淡江中学の前身)。

1881年

マッカイ博士はカナダへ帰国して復命したのち淡水に戻ると、宣教区を苗栗以北、さらには東部の宜蘭や花蓮にまで広げただけでなく、淡水に病院と学校を設立して宣教の規模を拡大し、社会への影響力を高めた。その間、清仏戦争が起こり教会は大きな打撃と試練を受けたが、その基礎はかえって揺るがず、マッカイ博士が創り出した宣教事業とその影響が、すでに台湾社会と切り離せないものであることを証明した。

淡水教会はマッカイ博士が設立した北台湾で最初の教会である。現在の赤煉瓦の礼拝堂は淡水の著名な古跡で、彼の来台60周年を記念して建て直されたものである。図中の1933年11月の落成式から見ると、参加者の大多数は当時の淡水中学と淡水女学院の学生である(両校は淡江中学の前身)。
淡水教会はマッカイ博士が設立した北台湾で最初の教会である。現在の赤煉瓦の礼拝堂は淡水の著名な古跡で、彼の来台60周年を記念して建て直されたものである。図中の1933年11月の落成式から見ると、参加者の大多数は当時の淡水中学と淡水女学院の学生である(両校は淡江中学の前身)。

03近代医学を導入し民衆に恵みをもたらす

マッカイ博士の台湾宣教の成功は、医療奉仕を巧みに用いて民衆の健康を効果的に改善したことと絶対的な関係があり、その影響も最も深く遠いものであった。

1873年5月

マッカイ博士は淡水に着くと、ただちに借りた住まいで人々を診療し、西洋薬を供給した。まもなく手術、抜歯、入院などの設備も加えた。西洋医学は効きめが速く、とりわけ当時は民衆が広くマラリアに苦しんでいたため、マッカイ博士のキニーネ水(quinine)は特効薬として大いに歓迎された。そのため受診者は日ごとに増え、1873年5月には別に民家を借りて診療所とし、「滬尾医館」と名づけた。

1879年9月14日に建てられた「滬尾偕医館」は、台湾北部で最初の西洋式病院である。清仏戦争のときには数えきれない清の兵士を救助したことにより軍功を得た。写真は1895年頃の撮影で、マッカイ博士が入口に立っている。「滬尾偕医館」は今日も淡水教会礼拝堂の東隣に保存されており、淡水の名高い古跡でもある。
1879年9月14日に建てられた「滬尾偕医館」は、台湾北部で最初の西洋式病院である。清仏戦争のときには数えきれない清の兵士を救助したことにより軍功を得た。写真は1895年頃の撮影で、マッカイ博士が入口に立っている。「滬尾偕医館」は今日も淡水教会礼拝堂の東隣に保存されており、淡水の名高い古跡でもある。

1879年

当時マッカイ博士は淡水駐在の外国人医師を招いて医館の医務を主宰させ、医療技術を伝授させた。こうした西洋人医師は前後五人おり、その中ではリンガー医師(Dr. B.S.Ringer)が最も有名である。彼はマッカイ博士とともに死因不明のポルトガル人船員の遺体を解剖し、その体内に肺吸虫が寄生しているのを発見した。これは世界で最初の症例であり、報告を発表したのちは一時大いに名を知られた。カナダも医療宣教師のフレーザー医師(Dr. J.B.Fraser)を淡水に派遣して医館を主宰させたが、二年後に妻が淡水で病没したため帰国した。その夫人は今も淡江中学の傍らの外国人墓地に葬られている。

マッカイ博士は民衆のために合わせて二万一千本の歯を抜いた。この粗野な医療の方法は、当時の民衆にかなり有効な奉仕をした。図にはマッカイ博士のほか、助手として学生の厳清華(中央)と柯玖(右)が写っている。
マッカイ博士は民衆のために合わせて二万一千本の歯を抜いた。この粗野な医療の方法は、当時の民衆にかなり有効な奉仕をした。図にはマッカイ博士のほか、助手として学生の厳清華(中央)と柯玖(右)が写っている。

このほか、マッカイ博士は伝道の旅を利用して、行く先々で人々の歯を抜き病を治した。在台中に二万一千本の歯を抜いたことは美談として伝えられている。同時に彼は学生や現地の伝道者を訓練し、各地の教会に医療の拠点を設けて、医療奉仕の範囲を広げた。医療に必要な経費の大半は外国商社の寄付によるもので、地元の有力者からも多少の援助があった。

1879年、マッカイ博士は同じくマッカイ姓のアメリカ人婦人から、亡夫を記念して新しい診療所の建築を援助するための三千米ドルの寄付を受けた。マッカイ博士はこの経費で今日の淡水馬偕街に新しい診療所を建て、マッカイ夫人の義挙を記念して「滬尾偕医館」と名づけた。この医館の建物は今日も淡水に保存されて古跡と見なされており、北台湾における西洋医学の発祥地でもある。

1879年9月14日に建てられた「滬尾偕医館」は、台湾北部で最初の西洋式病院である。清仏戦争のときには数えきれない清の兵士を救助したことにより軍功を得た。写真は1895年頃の撮影で、マッカイ博士が入口に立っている。「滬尾偕医館」は今日も淡水教会礼拝堂の東隣に保存されており、淡水の名高い古跡でもある。
1879年9月14日に建てられた「滬尾偕医館」は、台湾北部で最初の西洋式病院である。清仏戦争のときには数えきれない清の兵士を救助したことにより軍功を得た。写真は1895年頃の撮影で、マッカイ博士が入口に立っている。「滬尾偕医館」は今日も淡水教会礼拝堂の東隣に保存されており、淡水の名高い古跡でもある。

1884年

1884年、清仏戦争が淡水に及ぶと、偕医館は断固として救護の働きを担った。偕医館の主治医ジョンソン(Dr. C. H. Johnson)と、当時淡水港で自国民を保護していたイギリス軍艦の軍医ブラウン(伯朗)は、イギリス水兵を率いて偕医館に赴き、負傷した清の兵士の救護を助け、軍功と褒賞を得た。その後、清政府もしばしば医館の経費を寄付した。

滬尾医館の手術室の様子。左から、税関の外国人医師レニー(Rennie)、助手の張泉、マッカイ博士、助手の陳却。
滬尾医館の手術室の様子。左から、税関の外国人医師レニー(Rennie)、助手の張泉、マッカイ博士、助手の陳却。

1894年 - 1901年

偕医館は清末において名声の遠くまで届いた病院といえる。1894年だけでも医館を訪れた患者は延べ一万人を超えた。偕医館には病歴の管理、初診と再診の受付手続きがあり、医学報告の発表や臨床教育も行われ、医務が多忙であっただけでなく、制度もきわめて整っていた。日本が台湾を占領したのちも、政府は免許を交付して医療を許可した。また牛津学堂から医館へ実習に来た学生のうちにも、日本政府の医学試験に合格して医師免許を取得した者が多くいた。

偕医館は1901年にマッカイ博士が世を去ったのち、はじめて一時その働きを停止した。マッカイ博士は専門の医師ではなかったが、医を行って数えきれない人を救い、台湾の近代医療を啓発する功があり、さらに世界医学史に輝かしい一頁を記した。

1875年1月に淡水に着き、1877年に妻を失ったため子どもたちを連れて帰国した。フレーザー夫人は淡江の校庭の傍らの外国人墓地に葬られ、漢字の「華」の字が記されている。
1875年1月に淡水に着き、1877年に妻を失ったため子どもたちを連れて帰国した。フレーザー夫人は淡江の校庭の傍らの外国人墓地に葬られ、漢字の「華」の字が記されている。
フレーザー医師はカナダが台湾に派遣した最初の医療宣教師である。
フレーザー医師はカナダが台湾に派遣した最初の医療宣教師である。

04淡水を家として—台湾に愛を遺す

マッカイ博士の三十年近い伝道の生涯はすべて台湾に捧げられた。休暇で帰国したときも各地で講演し、台湾での諸事業のために資金を集めた。淡水は彼の台湾での働きの中枢であっただけでなく、第二の故郷でもあった。

1878年

1878年、マッカイ博士は生涯を台湾での伝道に捧げるという志を全うするため、台湾五股坑の女性・張聡明と結婚した。二人の間には二女一男が生まれ、長女の媽連と次女の以利は、成人後いずれもマッカイ博士の学生に嫁いだ。一人息子の偕叡廉は淡江中学の創設者であり初代校長である。

唐装をまとったマッカイ博士の家族写真。手に扇子を持って写っており、たいへん台湾らしい趣がある。
唐装をまとったマッカイ博士の家族写真。手に扇子を持って写っており、たいへん台湾らしい趣がある。

1878年5月

偕媽連の子である陳敬輝は淡江中学の美術教師であり、著名な画家でもあった。偕以利の子である柯設偕は長年教員と教務主任を務め、二度校長を代理したこともある。

マッカイの台湾人の妻である張氏は、俗名を蔥仔といい、マッカイがその音になぞらえて聡明と改めた。二人の結婚式は1878年5月27日にイギリス領事館でイギリス領事の司式により行われた。
マッカイの台湾人の妻である張氏は、俗名を蔥仔といい、マッカイがその音になぞらえて聡明と改めた。二人の結婚式は1878年5月27日にイギリス領事館でイギリス領事の司式により行われた。
張聡明はマッカイ博士との間に二女一男をもうけた。左の写真は清仏戦争の頃の撮影で、当時マッカイ博士は41歳、彼女は25歳であった。張聡明は二度マッカイ博士に従ってカナダへ里帰りしている。右は1993年の二度目の帰郷で、写真には三人の子どもたちが見える。
張聡明はマッカイ博士との間に二女一男をもうけた。左の写真は清仏戦争の頃の撮影で、当時マッカイ博士は41歳、彼女は25歳であった。張聡明は二度マッカイ博士に従ってカナダへ里帰りしている。右は1993年の二度目の帰郷で、写真には三人の子どもたちが見える。

1901年6月

1901年6月2日、マッカイ博士は喉の癌のため淡水の住まいで病没した。享年58歳。家族は遺言に従い、6月5日に彼を淡水外国人墓地の西側、すなわち生前に彼が購入していた一族の墓地に葬った。

マッカイ博士は一年に及ぶ病苦の末、1901年6月2日に世を去った。病没の三日後に一族の墓地に葬られた。図は当時の葬列である。
マッカイ博士は一年に及ぶ病苦の末、1901年6月2日に世を去った。病没の三日後に一族の墓地に葬られた。図は当時の葬列である。

マッカイ博士は教育に熱心で、学堂を興し義塾を設け、近代科学を広め、女性の地位を高めた。さらに民生の改善にも励み、外国から野菜の種子を輸入し、衛生を提唱し、医療技術を導入した。彼は現地の文化をも深く尊重し、その著作の中で論じて明らかにしたほか、西洋の近代建築と台湾の建築とを融合させ、それを自ら建てた教会堂、病院、学校に体現させた。生涯を通じて台湾に同化し、台湾に根を残した。

蘆洲教会礼拝堂
蘆洲教会礼拝堂
艋舺教会礼拝堂
艋舺教会礼拝堂
新店教会礼拝堂
新店教会礼拝堂

マッカイ博士自身は免許を持つ建築家ではなかったが、優れて興味深い建築物を少なからず建てた。台湾建築史を紹介する書物の多くが、マッカイ博士が設計し建築した教会堂、病院、学校に触れている。図は清仏戦争後にマッカイ博士が賠償金を用いて建てた七つの教会堂のうちの三つである。

我が心から愛する台湾よ!私はこの生涯のすべてを汝に捧げる 我が生の喜びはここにある 我が心から離れがたい台湾よ!私はこの生涯のすべてを汝に捧げる 我は雲と霧を透かして山々を望み 雲の切れ間から大地を見下ろす 波立つ大海を遠く望み、その彼方を遠く望む—我はここから遠くを望むのが好きだ 願わくは我が献身の生涯が終わるとき あの大波が岸を打つ音の中で あの竹林の揺れる木陰の下で 我が帰する所を見いださんことを⋯⋯

今日も真理大学の構内に完全な形で保存されているマッカイ博士の旧居。この建物は1875年に建てられ、後方に増築された二階建ての木造部分はマッカイ博士が生前使っていた書斎である。のちにここは偕叡廉校長の住まいにもなった。マッカイ家の三代がここで暮らした。
今日も真理大学の構内に完全な形で保存されているマッカイ博士の旧居。
今日も真理大学の構内に完全な形で保存されているマッカイ博士の旧居。この建物は1875年に建てられ、後方に増築された二階建ての木造部分はマッカイ博士が生前使っていた書斎である。のちにここは偕叡廉校長の住まいにもなった。マッカイ家の三代がここで暮らした。
この建物は1875年に建てられ、後方に増築された二階建ての木造部分はマッカイ博士が生前使っていた書斎である。のちにここは偕叡廉校長の住まいにもなった。マッカイ家の三代がここで暮らした。

05フォルモサの探検家

マッカイ博士は台湾北部を宣教区としたが、その足跡は全台湾に及んだ。実際、彼は台湾での大部分の時間を旅の中で過ごした。

今日も真理大学の構内に完全な形で保存されているマッカイ博士の旧居。この建物は1875年に建てられ、後方に増築された二階建ての木造部分はマッカイ博士が生前使っていた書斎である。のちにここは偕叡廉校長の住まいにもなった。マッカイ家の三代がここで暮らした。
今日も真理大学の構内に完全な形で保存されているマッカイ博士の旧居。この建物は1875年に建てられ、後方に増築された二階建ての木造部分はマッカイ博士が生前使っていた書斎である。のちにここは偕叡廉校長の住まいにもなった。マッカイ家の三代がここで暮らした。

その旅と探検が残した文字と映像は、清末台湾を研究するうえで最も豊富かつ最も権威があり、さらに欠くことのできない一次資料となっている。彼は淡水に着いて二日後には、一か月に及ぶ北部踏査の大旅行を始め、遠く埔里や日月潭にまで達した。続いて同じ年のうちに二度大雪山に登り、高地原住民の禁地の奥深くに入った。このほか、三貂嶺を越えて宜蘭に二十八回出入りし、さらに三度後山の花蓮に下り、神秘的な北方三島にも航海し、亀山島には教会まで設立した。その大半は外国人が足を踏み入れたことのない土地であった。

マッカイ博士は旅の途中、野原や道端の露店で食事をし宿をとった。台湾での旅は危険であった。険しい山河、土匪による略奪と殺害、原住民の首狩り、瘴気やマラリアのほか、劣悪な気候と遅れた衛生環境はさらに致命的であり、人並みはずれた体力と意志と適応力がなければならなかった。
マッカイ博士は旅の途中、野原や道端の露店で食事をし宿をとった。台湾での旅は危険であった。険しい山河、土匪による略奪と殺害、原住民の首狩り、瘴気やマラリアのほか、劣悪な気候と遅れた衛生環境はさらに致命的であり、人並みはずれた体力と意志と適応力がなければならなかった。
マッカイ博士は旅の途中、野原や道端の露店で食事をし宿をとった。台湾での旅は危険であった。険しい山河、土匪による略奪と殺害、原住民の首狩り、瘴気やマラリアのほか、劣悪な気候と遅れた衛生環境はさらに致命的であり、人並みはずれた体力と意志と適応力がなければならなかった。
マッカイ博士は旅の途中、野原や道端の露店で食事をし宿をとった。台湾での旅は危険であった。険しい山河、土匪による略奪と殺害、原住民の首狩り、瘴気やマラリアのほか、劣悪な気候と遅れた衛生環境はさらに致命的であり、人並みはずれた体力と意志と適応力がなければならなかった。
マッカイ博士の旅で最も豪華な宿であった「中壢客桟」。彼はこれを「女皇大飯店」(Queen's Hotel)と愛称した。1872年3月11日、台湾北部での旅の初日に彼が泊まったのがここである。清代台湾の道路、橋梁、宿の水準は外国人には想像しがたいものであった。
マッカイ博士の旅で最も豪華な宿であった「中壢客桟」。彼はこれを「女皇大飯店」(Queen's Hotel)と愛称した。1872年3月11日、台湾北部での旅の初日に彼が泊まったのがここである。清代台湾の道路、橋梁、宿の水準は外国人には想像しがたいものであった。

このほか、学生を率いて南台湾へ会議に赴くときも、いつも徒歩での往復を選んだ。1878年には二週間の旅を新婚旅行としている。マッカイ博士は幾度もの探検旅行を書物に記録しただけでなく、広く収集した各種の物品によって、淡水に台湾で最も早い博物館を設立した。したがって、彼を台湾の偉大な旅行家・探検家と呼ぶのは決して過褒ではない。

06マッカイ博士の噶瑪蘭への思い

宜蘭はマッカイの時代には蛤仔蘭、甲子蘭と呼ばれた。マッカイ博士が「平埔番」と呼んだ噶瑪蘭(カバラン)の人々が住んでいた。マッカイ博士は1973年10月から、宜蘭と蘇澳に二十八回出入りし、この雨の多い平野で噶瑪蘭の36社のために34の平埔教会を設立しただけでなく、彼らとの間に深い情を結び、今日もなお少なからぬ感動的な物語がその地に伝えられている。噶瑪蘭平埔族への宣教は、マッカイ博士の台湾後半期における宣教の重点であり、最も伝説的なものでもあった。

噶瑪蘭平埔族の火縄銃隊。彼らはしばしば護衛としてマッカイの「番界」越えに付き添った。図の後列右端(帽子をかぶった人物)は厳清華。後列左から二人目は漢人の案内人で、肩にあるのは連発銃である。
噶瑪蘭平埔族の火縄銃隊。彼らはしばしば護衛としてマッカイの「番界」越えに付き添った。図の後列右端(帽子をかぶった人物)は厳清華。後列左から二人目は漢人の案内人で、肩にあるのは連発銃である。
図中の平埔族の織り手は偕阿云で、噶瑪蘭の教会のうち最大の教会である打馬煙の頭目・偕阿督の娘である。阿云は宣道婦も務め、淡水女学堂で手伝いをした。彼らはのちに漢姓に改めるとき、いずれもマッカイの「偕」の姓に倣った。今日「偕」は噶瑪蘭の大姓である。
平埔族の織り手は偕阿云で、噶瑪蘭の教会のうち最大の教会である打馬煙の頭目・偕阿督の娘である。阿云は宣道婦も務め、淡水女学堂で手伝いをした。彼らはのちに漢姓に改めるとき、いずれもマッカイの「偕」の姓に倣った。今日「偕」は噶瑪蘭の大姓である。
噶瑪蘭平埔族の農耕の暮らし。マッカイは彼らを「楽天知命」と言った。流流社の末裔は今日も冬山河の下流に暮らしており、彼らが営む噶瑪蘭樹屋は淡江中学の宜蘭尋根活動でよく訪れる場所である。マッカイ博士が当時手ずから植えたと伝えられる大葉山欖が、その園区の入口にある。
噶瑪蘭平埔族の農耕の暮らし。マッカイは彼らを「楽天知命」と言った。流流社の末裔は今日も冬山河の下流に暮らしており、彼らが営む噶瑪蘭樹屋は淡江中学の宜蘭尋根活動でよく訪れる場所である。マッカイ博士が当時手ずから植えたと伝えられる大葉山欖が、その園区の入口にある。
マッカイ博士が宜蘭に出入りする際に通ったのが淡蘭古道である。
マッカイ博士が宜蘭に出入りする際に通ったのが淡蘭古道である。
マッカイ博士が宜蘭に出入りする際に通ったのが淡蘭古道である。そのうち三貂嶺古道と草嶺古道は今日も懐旧の旅の名所であり、マッカイ博士が生前に二十八回歩いただけでなく、2018年の淡江中学高校二年生の成長キャンプもこの古道を歩いた。
そのうち三貂嶺古道と草嶺古道は今日も懐旧の旅の名所であり、マッカイ博士が生前に二十八回歩いただけでなく、2018年の淡江中学高校二年生の成長キャンプもこの古道を歩いた。
噶瑪蘭流流社教会の信徒名簿
マッカイ博士は1878年から二度亀山島に登り、この島について詳細な記録を残した
マッカイ博士は1878年から二度亀山島に登り、この島について詳細な記録を残した
2018年、淡江中学の学生も島に登って往時を偲んだ。写真は彼が詳しく記した湖と媽祖廟の前で撮影されたものである。
2018年、淡江中学の学生も島に登って往時を偲んだ。写真は彼が詳しく記した湖と媽祖廟の前で撮影されたものである。
蘭陽に名を馳せた伝説的人物である陳輝(煌)もマッカイの親友であった。陳輝は早くは渓南開拓の大立者であり、のちに蘇花古道の開通、抗仏、「開山撫番」で軍功を重ねた。陳輝はしばしば親友マッカイの蘭陽での身の安全を自らの責務とみなし、たびたび自分の手勇を遣わして「番界」越えに付き添わせることを主張した。その子孫は淡水中学の創立の際にも学校に寄付をしている。
蘭陽に名を馳せた伝説的人物である陳輝(煌)もマッカイの親友であった。陳輝は早くは渓南開拓の大立者であり、のちに蘇花古道の開通、抗仏、「開山撫番」で軍功を重ねた。陳輝はしばしば親友マッカイの蘭陽での身の安全を自らの責務とみなし、たびたび自分の手勇を遣わして「番界」越えに付き添わせることを主張した。その子孫は淡水中学の創立の際にも学校に寄付をしている。

07マッカイ博士、三たび後山花蓮へ

台湾の後山・花蓮(奇萊)への探検はマッカイ博士の念願であった。1876年6月、彼はイギリスの砲艦ラップウィング(Lapwing)号で花蓮へ向かったが、風浪が激しく、また岸の原住民の敵意もあって願いを果たしがたかった。1890年9月になってようやく花蓮の探検を成し遂げた。最初の七日間の花蓮行では、花蓮に流れ着いた五つの噶瑪蘭族の教会を慰問したほか、当時「南勢番」と呼ばれたアミ族の七脚湾社などの村落も訪ねた。抜歯や治療、福音の伝道のほか、貴重な映像と文字の記録も残しており、とりわけ九つの年齢階層からなる部落組織を詳しく記した。その後さらに1891年5月および1892年5月と、二年続けて花蓮へ赴いた。

マッカイ博士は三度、宜蘭の南方澳からこのような平埔族の人々が漕ぐ木船に乗り、東海岸沿いに花蓮へ向かった。彼らは夕方に出航し、翌日の昼に当時奇萊と呼ばれた花蓮港に着いた。彼は船尾の舵取りのそばに座った。そこが景色を眺めるのに最も良い位置だと考えたからである。
マッカイ博士は三度、宜蘭の南方澳からこのような平埔族の人々が漕ぐ木船に乗り、東海岸沿いに花蓮へ向かった。彼らは夕方に出航し、翌日の昼に当時奇萊と呼ばれた花蓮港に着いた。彼は船尾の舵取りのそばに座った。そこが景色を眺めるのに最も良い位置だと考えたからである。
マッカイ博士のカメラがとらえた花蓮港付近(今日の美崙)の、水牛がサトウキビの車を引く光景。遠景は中央山脈である。
マッカイ博士のカメラがとらえた花蓮港付近(今日の美崙)の、水牛がサトウキビの車を引く光景。遠景は中央山脈である。
火縄銃を持つアミ族の勇士とマッカイ博士。マッカイ博士は、彼らは「生番」の脅威と漢族の貪欲と欺瞞との間に挟まれていると述べた。
火縄銃を持つアミ族の勇士とマッカイ博士。博士は、彼らは「生番」の脅威と漢族の貪欲と欺瞞との間に挟まれていると述べた。
アミ族の集落を訪れたマッカイ博士。図中の高床式の家の前後には竹や檳榔のほか、彼はこのアミ族の族樹「八支律」(Bat-Chit-L'ut、パンノキ)に特に注目していた。
アミ族の集落を訪れたマッカイ博士。図中の高床式の家の前後には竹や檳榔のほか、彼はこのアミ族の族樹「八支律」(Bat-Chit-L'ut、パンノキ)に特に注目していた。
アミ族の頭目がパンノキの苗をマッカイ博士に贈り、彼はそれを淡水に持ち帰って、マッカイの住まいの裏庭にある読書楼の東側に植えた。パンノキは風や寒さに弱いが、淡水の砲台埔では枝葉を茂らせ、今では貴重な老樹となっている。
アミ族の頭目がパンノキの苗をマッカイ博士に贈り、彼はそれを淡水に持ち帰って、マッカイの住まいの裏庭にある読書楼の東側に植えた。パンノキは風や寒さに弱いが、淡水の砲台埔では枝葉を茂らせ、今では貴重な老樹となっている。
マッカイ博士は1878年から二度亀山島に登り、この島について詳細な記録を残した
マッカイ博士は1878年から二度亀山島に登り、この島について詳細な記録を残した
2018年、淡江中学の学生も島に登って往時を偲んだ。写真は彼が詳しく記した湖と媽祖廟の前で撮影されたものである。
2018年、淡江中学の学生も島に登って往時を偲んだ。写真は彼が詳しく記した湖と媽祖廟の前で撮影されたものである。
蘭陽に名を馳せた伝説的人物である陳輝(煌)もマッカイの親友であった。陳輝は早くは渓南開拓の大立者であり、のちに蘇花古道の開通、抗仏、「開山撫番」で軍功を重ねた。陳輝はしばしば親友マッカイの蘭陽での身の安全を自らの責務とみなし、たびたび自分の手勇を遣わして「番界」越えに付き添わせることを主張した。その子孫は淡水中学の創立の際にも学校に寄付をしている。
蘭陽に名を馳せた伝説的人物である陳輝(煌)もマッカイの親友であった。陳輝は早くは渓南開拓の大立者であり、のちに蘇花古道の開通、抗仏、「開山撫番」で軍功を重ねた。陳輝はしばしば親友マッカイの蘭陽での身の安全を自らの責務とみなし、たびたび自分の手勇を遣わして「番界」越えに付き添わせることを主張した。その子孫は淡水中学の創立の際にも学校に寄付をしている。

08マッカイ博士の原住民の同族

マッカイ博士の台湾原住民との接触と研究は、相当に深く権威あるものであった。彼は平埔族の新港教会に近い獅潭から、また台北の新店・三峽の近くから山に入り、タイヤル族とサイシャット族の二つの原住民に接した。幾度か彼らの「首狩り」に遭う危険に瀕したが、彼らと深い友情も結んだ。興味深いことに、マッカイ博士は医術に優れ、友好的で誠意があったほか、原住民が嫌う漢人の弁髪がなかったことから、彼らはマッカイを自分たちの「同族」と呼んだ。マッカイは著書の中で終始「未帰順」という語で彼らを形容し、文明人に共通する道徳上の悪習が彼らにはないと称賛した。

マッカイ博士は幾度も深山の原住民の集落に入り、あるときは新店のある頭目の家でクリスマスを過ごしたことさえある。彼は原住民の女性の境遇にも深く同情し、「最も重い負担は彼女たちの上に落ちる……文明国の女性がまさに健康で美しい時期に、彼女たちはすでに老い衰え醜くなっている」と述べたことがある。
マッカイ博士は幾度も深山の原住民の集落に入り、あるときは新店のある頭目の家でクリスマスを過ごしたことさえある。彼は原住民の女性の境遇にも深く同情し、「最も重い負担は彼女たちの上に落ちる……文明国の女性がまさに健康で美しい時期に、彼女たちはすでに老い衰え醜くなっている」と述べたことがある。
マッカイ博士の家にあった原住民の器物の収蔵品。これらは彼の博物館で最も目を引く収蔵品であった。
マッカイ博士の家にあった原住民の器物の収蔵品。これらは彼の博物館で最も目を引く収蔵品であった。
火縄銃を持つアミ族の勇士とマッカイ博士。マッカイ博士は、彼らは「生番」の脅威と漢族の貪欲と欺瞞との間に挟まれていると述べた。
火縄銃を持つアミ族の勇士とマッカイ博士。博士は、彼らは「生番」の脅威と漢族の貪欲と欺瞞との間に挟まれていると述べた。
アミ族の集落を訪れたマッカイ博士。図中の高床式の家の前後には竹や檳榔のほか、彼はこのアミ族の族樹「八支律」(Bat-Chit-L'ut、パンノキ)に特に注目していた。
マッカイ博士のカメラがとらえた首狩りの勇士。彼は何度かこの恐ろしい首狩り人の手にかかって命を落としかけた。彼の学生の一人である許鋭は獅潭の山中で害に遭った。
1891年2月、新店のタイヤル族12人が、マッカイ博士の招きに応じ、大頭目マライ(馬賴 Ma-Lai)に率いられて淡水に来て、二泊三日のもてなしと参観を受けた。
1891年2月、新店のタイヤル族12人が、マッカイ博士の招きに応じ、大頭目マライ(馬賴 Ma-Lai)に率いられて淡水に来て、二泊三日のもてなしと参観を受けた。
今日も真理大学の構内に完全な形で保存されているマッカイ博士の旧居。この建物は1875年に建てられ、後方に増築された二階建ての木造部分はマッカイ博士が生前使っていた書斎である。のちにここは偕叡廉校長の住まいにもなった。マッカイ家の三代がここで暮らした。
今日も真理大学の構内に完全な形で保存されているマッカイ博士の旧居。この建物は1875年に建てられ、後方に増築された二階建ての木造部分はマッカイ博士が生前使っていた書斎である。のちにここは偕叡廉校長の住まいにもなった。マッカイ家の三代がここで暮らした。

マッカイ博士と、早い時期に育てた現地の伝道者たちが淡水の牛津学堂の前で撮った記念写真。マッカイ博士は中央に立ち、右上は厳清華、前列左端は陳栄輝で、二人は北台湾で最も早い現地人の牧師である。前列右から八宝竜、蕭田、葉順、陳存心、荘天能、呉寛裕、劉在。いずれも北部の教会の重要な幹部である。

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牛津学堂と淡水女学堂

第1章