校史 · 第2章
淡水女学校と淡水中学校の創設淡水女学校と淡水中学校の増設
本文は校史館の中国語原文からの翻訳です。記録としては中国語原文を正とします。
01日本統治時代の変革と淡水の衰退
1893年、マッカイ博士は二度目の帰国をした。翌年、日清戦争が起こり、敗れた清国は下関条約により台湾を日本に割譲した。1895年末、マッカイ博士は統治者の代わった淡水に戻り、彼の尽力によって医館も学校も引き続き発展することができた。しかし日本の台湾統治後、台湾の公共建設は効果的に改善され、とりわけ小学校・中学校・農学校・医学校、および設備の整った官立病院の開設によって、マッカイ博士が清末に設立し誇りとしていた学校と病院は、相対的に立ち後れたものとなった。
日本の台湾領有後、淡水港は次第に土砂で埋まり基隆港に取って代わられ、名ばかりの国際港となった。写真は1930年代、現在の淡水MRT駅前の港域で、写真左側の汽船は当時の施合発商行の「大観丸」である。
マッカイ博士自身も、この新しい環境の中で教育方針を調整し規模を充実させて変局に対応する必要があると述べていた。しかし1901年6月に喉頭がんのため逝去し、志は未完のまま残された。
このころ淡水にも変化が生じた。第一に、清末の通商条約によって与えられていた優位が、政局の変化によって失われたこと。第二に、淡水の発展を支えてきた外国商人と、その中継貿易の内容が、次第に日本によって抑えられ取って代わられたことである。さらに淡水は河口の港であり、上流の開墾が水土の保全に影響したため港の水路は次第に浅くなり、大型船が入港しにくくなった。加えて基隆は日本により近く便利であったため、1903年以降、基隆港の貿易量は淡水港を上回った。
日本政府が基隆港の建設に力を注ぎ、さらに鉄道の便もあって基隆は台湾の玄関口となり、淡水は次第に名ばかりの国際港へと転落した。同時に、日本政府は台北城を接収した後、これを台湾第一の地域として整備しており、マッカイ博士がかつて淡水を宣教・医療・教育の中心とした方針は、いっそう時代に合わないものとなった。
淡水港は衰退したものの、日本政府の力を入れた建設のもとで、なお台北近郊のきわめて重要な町であった。写真は1899年に使用が始まった台湾初の水道施設。写真左側は公用の水道の蛇口で、場所は今日の淡水の重建街にあたる。


1892年10月、ウィリアム・ゴールド牧師(Rev. William Gauld、呉威廉)は新婚の妻とともにカナダから淡水に到着した。ゴールド牧師は高校在学中、ちょうどマッカイ博士の第一回帰国に際してその講演を聞いて深く感動し、マッカイ博士に倣うことを決意した。大学卒業後、訓練を経て台湾に派遣され、のちにマッカイ博士の後継者となった。
ゴールド牧師はマッカイ博士の二度目の帰国中、三年にわたりその職務を代行した。その間はちょうど清と日本の戦乱の時期にあたり、ひとえに彼個人の適切な対応によって難局を乗り越えたことは、彼が得がたい人材であることを十分に証明した。
ゴールド牧師は、マッカイ博士逝去後の局面を、外国人宣教師と現地教会の指導者が共同で導く形へと転換させた。彼らは1904年5月9日、カナダの母教会に対して歴史的な建議書を送ったが、そのうちの二項目が今日の淡江中学を生み出したと考えられている。一つは、資格のある独身の女性教師二名を派遣し、淡水女学堂に駐在させて新しい時代の女子教育を充実させること。もう一つは、適切な中学あるいは予科学校を建設し、神学校の水準を高めることであった。これらの建議はカナダ側の全面的な支持を得て、淡水では第二波の学校創設が始まった。



02淡水女学校、淡水女学堂にて復学す
1905年11月、カナダは果たして金仁理姑娘(Miss Jane Kinney)と高哈拿姑娘(Miss Hannah Connell)の二人の女性宣教師を淡水に派遣し、女子教育の働きに当たらせた。「姑娘」とは、台湾および中国閩南一帯において、青春の年月と結婚の幸福を犠牲にして外国で奉仕した独身の女性宣教師に対する敬称である。「姑娘」もまた淡江の文化の一部である。


1907年10月1日、日本政府の教育制度に適合したこの女学校は、マッカイ博士が建てた淡水女学堂の旧校舎で改めて開校した。生徒は全部で24名、入学年齢は12歳以上に限られ、中等教育を行う学校であった。教育学修士の金仁理姑娘が校長を務め、教育内容は一般の中学課程のほかに漢文聖書、音楽などがあり、授業は台湾語で行われた。教師は金姑娘のほか、高姑娘、呉威廉夫人、偕以利、および数名の日本人女性教師であった。翌年、学校は保護者を招いて参観してもらい、保護者たちは学校の環境・設備・教育・生活指導のいずれにも満足の意を示した。1912年からは日本の制度に合わせ、学年を四月始まり、翌年三月終わりに改めた。
同時に、淡水女学校の教育方針の変更により、かつて女学堂が対象としてきた就学の機会を逸した女性、既婚者、教会の伝道婦は学ぶ場を失った。この教育の働きを補うため、教会は女学校の東隣の高台に別の校舎を建てた。1910年、この「婦学堂」(Women's School)が開学し、初代校長は高哈拿姑娘であった。この学校の目的は、教会の伝道婦と女性信徒を養成することにあった。
1907年10月1日、淡水女学校はマッカイ博士が建てた淡水女学堂の旧校舎で改めて開校した。中央に座るのは呉威廉と日本の台北州学務課の官員。
生涯が伝説に満ち、「原住民教会の母」と敬称された芝苑(Chi-Oan Iwad、姫望とも訳す)は、1929年に孫雅各牧師によって東部から婦学堂へ連れ戻され学んだ人である。彼女は1931年に卒業後タロコに戻り、日本の警察による圧迫と捜索の下でも、勇敢にキリスト教をタイヤル族とタロコ族の原住民集落に伝え広めた。
婦学堂は二年制を採り、教師は女性宣教師のほか、兼任教師三名と専任の舎監がいた。授業内容は中国語・日本語および習字のほか、聖書と音楽を特色とした。高姑娘は音楽学士であり、呉威廉夫人はかねて「北部教会音楽の母」と称され、その教え方は厳格で、「音楽におおよそはない」(There is no just about in music)は彼女の名言であった。



婦学堂の卒業生は、教会と当時の社会における音楽の発展に極めて大きな影響力をもった。婦学堂は開設から1922年までに、すでに二百名の卒業生を出しており、1929年には法令に合わせて「婦女義塾」と改称され、1937年になってようやく閉じられた。
1915年になると、マッカイの時代に建てられた女学堂は校舎が古くなっただけでなく、使用にも足りなくなっていた。当時、改築が決定され、女学校はそのため一年間休校した。1916年に呉威廉の設計による新校舎が竣工し、6月1日に改めて開校して高等女子部を増設し、正式に「淡水高等女学校」と改称され、学制は予科四年と本科四年の二種に分けられた。改制後も金姑娘が校長を務めたほか、新たに教員が加わった。二名は日本から、四名は台湾から、そして1910年にカナダから増派された黎瑪美姑娘(Miss Mabel Clazie)である。その後、生徒数は年ごとに増え、程度もますます高くなった。同校の卒業生が日本へ大学教育を受けに行きやすいよう、女学校は従来の台湾語による授業を改め、大半を国語(日本語)で行うようにした。
03淡水中学校、牛津学堂に創立さる
マッカイ博士の逝去後、牛津学堂はゴールド牧師が引き続き校務を主宰し、神学校に改められた。当時、日本人の台湾経営はすでに成果を上げており、教育の面では学校・師範学校の設置と各地に普及した六年の国民教育が完成していたため、神学校(牛津学堂)の水準もまた引き上げねばならなかった。


偕叡廉は1911年4月に小学校教師の蘿絲仁利(Jean Ross)と結婚し、12月4日に十年ぶりの台湾に戻った。写真は北部教会の信徒と台湾の親族が淡水の牛津学堂で開いた歓迎会。
1909年から神学校は学年制度を確立し、入学者は小学校教育を修了していることを要し、神学科と普通科に分けられた。普通科は中等教育の始まりであった。しかし神学生の水準を高めるには、これだけでは十分ではなく、そこで別に予備学校を設けて台湾の子弟に中等教育の機会を提供することが、急務となった。
1911年末、マッカイ博士の長男・偕叡廉は教育学修士の学位を得た後、新婚の妻・偕仁利(J. R. Mackay)とともに淡水へ戻り、中学の設立準備に当たった。同年、北部教会は宣教の中心を淡水から台北へ移し、新しい神学校の校舎を建てることを決めた。移転後の牛津学堂は、のちに淡水のこの中学の校舎となった。
淡水中学校(Tamsui Middle School)は1914年3月9日、ついに日本政府の設立認可を得た。台湾北部で最も早い本土の子弟のための正式な五年制中学が牛津学堂の校舎で開校した。写真は4月1日の始業式。
数年にわたる準備を経て、1914年3月9日、ついに日本総督府の設校許可を得た。心を励まされたのは、この日がちょうどマッカイ博士が42年前に淡水に上陸したのと同じ日付であったことである。以後、この日は淡江中学の創立記念日ともなった。
1914年4月1日午後一時半、淡水中学校(Tamsui Middle School)はついに牛津学堂で開校した。開校式はきわめて盛大で、隈本学務部長、淡水支庁長、税関長など政府の官員が参列し、隈本部長は祝辞の中で教会が教育の働きを重んじていることを称賛した。
淡水中学校は、台湾で最も早い本土の正式な五年制中学校といえる。もとから淡水に残って学び続けていた神学校普通科の二十数名の学生のほか、第一期の新入生は二十五名で、初代校長は偕叡廉であった。学校の教師十名は、偕校長のほか、偕校長夫人、約美旦夫人、音楽を教える呉威廉夫人、1913年にカナダから淡水へ派遣され青年教育と校舎の設計・建築を担当した羅虔益(Mr. Kenneth Doawie)、さらに楢橋盛次郎牧師、日本語を教える安井蔵太郎とその妻で理化を教える者の日本人三名、そして漢文を教える秀才の李種松と蕭安居牧師であった。
当時の授業は日本語と台湾語で行われたが、英語教育が特色となった。開校二年目の報告には「中学校の学生は約六十名、校舎に限りがあり入学を志望する学生をすべて収容できない。英語は教科の一つであり、そのため多くの非キリスト教徒、さらには日本人の子弟までも本校で学ぶことを望んでいる」と記されている。1919年、中学の第一回卒業生は九名で、卒業式は淡水高等女学校と合同で行われた。淡水中学校と淡水高等女学校の運営と管理は、当初いずれも宣教師で構成される教士会が担っていた。1923年、教育の働きを強めるため、教士会は別に「学務会」(Advisory Council)を設け、教士会・教会・卒業生の三者がそれぞれ代表を出して構成し、両校の運営を研究する顧問機関とした。その年、現地教会は陳清義(マッカイ博士の長女の婿)と郭希信(牛津学堂第一期の学生)の二牧師を学務会に派遣した。これが外国人宣教師と現地教会の協働運営の始まりであり、それゆえ男女両校は一体であったといえる。
04台湾の子、二世マッカイ――偕叡廉校長
偕叡廉(Rev. George William Mackay, M.A., D.D.)はマッカイ博士の一人息子である。のちに牧師に按手され、名誉神学博士の学位も得たが、著名な父と区別するため、人々は一般に彼を「偕先生」と呼んだ。
偕叡廉は淡江中学の創立校長であり、写真は家族の集合写真。夫妻の中央は三女の瑪烈、後列左から次男の約翰、長男の威理、長女の安蓮、次女の明利。
1882年1月22日、偕叡廉は淡水に生まれ、伝説に満ちた宣教師の家庭の中で多彩な幼少期を過ごした。マッカイ博士は多忙をきわめながらも子どもたちを大変慈しみ、自ら教育したほか、1893年の二度目の帰国の際には3名の子どもを本国に連れ帰って二年間の西洋教育を受けさせ、のちには偕叡廉を香港のヴィクトリア中学へ進学させた。マッカイの逝去後、偕叡廉はカナダに渡って学業を続け、トロントのセント・アンドリュース・カレッジ、トロント大学に相次いで学び、アメリカ・マサチューセッツ州のクラーク大学で心理学の修士を得たのち、父の志を継いでカナダ海外宣道会に海外宣教を志願し、生まれ故郷へ宣教師として派遣された。その使命は、北部教会と台湾の青年のために中学を一校開くことであった。
05台湾の子、二世マッカイ――偕叡廉校長
1911年12月、彼は新婚の妻・偕仁利(J. R. Mackay)を伴い、十年ぶりの台湾に戻った。花嫁の父・羅斯‧約翰牧師は、マッカイ博士の生前からの旧知の親友であった。二世マッカイの帰台は、マッカイ博士に三十年近く導かれてきた北部教会の信徒にとって、当然ながら大いに歓迎されるものであった。彼らはゴールド牧師が率いる教士会のチームに加わり、続いて1914年に淡水中学校を創立し、1935年まで校長を務めた。その間、淡水教会の長老も務め、今日の淡水教会の美しい赤煉瓦の礼拝堂は彼が建設を進めたものである。その夫人・偕仁利は、教会の信徒も学生も皆「偕先生娘」と呼んだ。淡江中学で教えたほか、学生の信仰生活にいっそう心を配り、聖書研究会、サマーキャンプ、日曜学校などを開いた。その信仰は堅く、影響は深く遠くに及んだ。
06戦火に隔てられても 心は台湾に
偕叡廉は創校から1935年まで、三度の出国の際に他の宣教師が代行したほかは、すべて自ら校長を務めた。第二次世界大戦中はカナダ海外宣道会の派遣により、戦火の及ばない南米のイギリス領ギアナに赴き、現地の中学で校長を務め、夫人も終戦までそこで教えた。偕叡廉夫妻は二男三女をもうけ、子どもたちはいずれも幼少期を淡水で育ち、少年期には日本の神戸のイギリス人学校で教育を受けた。偕威理と偕約翰の兄弟は成長後、偕叡廉の母校であるセント・アンドリュース・カレッジに戻って教育を受けた。1939年、威理はカナダ王立空軍に入り、空中戦の英雄であったが、1942年3月13日に大西洋で戦死した(マッカイ墓園に記念碑がある)。1940年には約翰も従軍し、最後は陸軍少佐の情報将校として除隊した。







07落葉帰根 台湾の土となる
偕叡廉は1947年に淡江中学へ戻り、学校の理事長を務めた。1952年の退職後は淡水で老後を過ごし、三人の娘・安蓮、明利、瑪烈が相次いで来台して両親に付き添った。夫妻は晩年、淡水教会の隣にあるもとの「滬尾偕医館」の場所を借りて聖書センターを開き、少なからぬ伝道者を養成して1960年代の台湾の福音運動に加わった。また「背唸聖経会」を創立し、北海岸で開拓伝道を行った。今日でも三芝の街には「小基隆偕叡廉記念教会」を見ることができる。
偕叡廉は1963年7月20日、台北のマッカイ病院で病のため逝去し、7月23日に淡水教会の礼拝堂で告別式が行われ、その後マッカイ家族墓園の父マッカイ博士の左側に葬られた。1966年に落成し使用が始まった淡江中学の大礼拝堂の主塔も、彼を記念して「偕叡廉校長記念塔」と名付けられた。偕仁利は1968年8月6日、淡水教会の会員に見送られてカナダへ静養に戻り、翌年8月16日にトロントで病のため逝去した。今日、マッカイ墓園の偕叡廉の墓の傍らにはその記念碑が立てられている。





































